明治4年 (1871) |
11月5日(旧暦9月23日)篤明(通称嘉平次)多治の三男として、中村町中之丁961に生まれる。薬種商・酒造業。(1歳) | |
明治5年 (1872) |
8月14日(旧暦)父死亡。(2歳) | |
明治9年 (1876) |
10月28日、母の従兄、熊本県令、安岡良亮が神風連の乱で遭難。12月、中村小学校下等第8級に入学。(6歳) | |
明治11年 (1878) |
12月15日、中村小学校下等第3級卒業。(8歳) | |
明治12年 (1879) |
木戸明(鶴州)の修明舎に入る。考経の素読を受ける。(9歳) | |
明治13年 (1880) |
2月24日、中村小学校下等科卒業。6月23日、上等6級、上等5級卒業。(10歳) | ※ 林有造ら挙兵を策し捕わる。西郷隆盛自刃。 |
明治14年 (1881) |
中村中学校に入学。(11歳) | ※ 自由党結成。 |
明治18年 (1885) |
初等中学科第3年後期卒業。淡成会を結成。(15歳) | ※ 坂本清馬生れる。 |
明治19年 (1886) |
高知の木戸明の「遊焉義塾」に入る。(16歳) | |
明治20年 (1887) |
林有造の書生となる。(17歳) | |
明治24年 (1891) |
中江(兆民)家に寄寓。国民英学会に通う。(21歳) | |
明治25年 (1892) |
国民英学会正科卒業。(22歳) | ※ 「万朝報」発刊。 |
明治26年 (1893) |
「自由新聞」入社。(23歳) | |
明治28年 (1895) |
3月「広島新聞」入社。5月「中央新聞」入社。(25歳) | |
明治29年 (1896) |
福島県三春辺の旧久留米藩士の娘、朝子と結婚。まもなく離婚。 (26歳) |
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明治30年 (1897) |
4月「団団珍聞」社員となる。(27歳) | ※ 3月、足尾銅山鉱毒被害民800余名上京。 |
明治31年 (1898) |
2月「万朝報」入社。(28歳) | |
明治32年 (1899) |
7月、国学者、師岡正胤の娘千代子(戸籍名千代)と結婚。(29歳) | |
明治34年 (1901) |
12月、田中正造の直訴状を起草。12月13日、中江兆民死去。(31歳) | |
明治35年 (1902) |
2月『長広舌』刊行。3月『兆民先生』刊行。(32歳) | |
明治36年 (1903) |
7月『社会主義神髄』刊行。10月「万朝報」を退社。「平民社」を創設。(33歳) | |
明治37年 (1904) |
「平民新聞」に非戦論を展開する。9月『社会民主党建設者ラサール』刊行。(34歳) | |
明治38年 (1905) |
筆禍事件で禁錮5ヶ月の刑をうけ巣鴨監獄に入獄。獄中でクロポトキンの『田園・製造所および工場』を読み、無政府主義に関心をいだく。10月「平民社」解散。11月14日、横浜から伊予丸で渡米する。サン・フランシスコ着。岡繁樹、ジョンソンに会う。12月、アメリカ社会党に入党。(35歳) |
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明治39年 (1906) |
4月18日、サン・フランシスコ大地震。6月5日、岡繁樹と同行、香港丸で帰国、23日朝横浜着。7月4日、妻千代子と帰省。中村町、入野村で演説会を開く。9月、東京着。(36歳) | |
明治40年 (1907) |
1月「平民新聞」刊。4月『平民主義』刊行。8月『革命奇談神愁鬼哭』刊行。12月『経済組織の未来』秘密出版。(37歳) | ※ 9月、坂本清馬(克水)同居・足尾銅山暴動、軍隊出勤。 |
明治41年 (1908) |
中村町で『麺麭の略取』翻訳。6月森近運平とともに演説会。赤旗事件おこる。(38歳) | ※ 坂本清馬、秋水と別れる。 |
明治42年(1909) | 1月『麺麭の略取』刊行。発禁となる。3月1日妻千代子を協議離婚。(39歳) |
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明治43年 (1910) |
小泉三申のすすめで『通俗日本戦国史』執筆。6月1日、湯河原で検挙。11月20日『基督抹殺論』脱稿。堺利彦に『基督抹殺論』の出版を依頼する。12月15日、全員に死刑求刑。12月28日、母多治中村町で病死。(40歳) | |
明治44年(1911) | 1月18日、刑法第73条によって死刑判決。 1月24日、午前8時6分死刑執行。 1月25日、屍体を落合火葬場で荼毘に付す。 2月、『基督抹殺論』刊行。(41歳) |
※ 死刑 |
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